FANTAHOLIC

美しくなければ、Footballじゃない

ピッチの詩人を葬ったのは誰か──メスト・エジルが告発した「見えない敵」と、サッカー界が学ぶべき教訓

メスト・エジル

かつて、彼の左足から放たれるパスは、DFラインを切り裂く一筋の光だった。
誰も予測できないタイミングと軌道で、決定的なチャンスを創造する。
ファンはその魔法に酔いしれ、「アシストキング」「オズの魔法使い」と讃えた。

www.youtube.com


しかし、その魔法はあまりにも早く、静かにピッチから消え去った。

一体、何が彼を追い詰めたのか。
ピッチの詩人を葬ったのは、誰だったのか。

これは、一人の天才が投げかけた、サッカー界への重い問いを辿る物語である。

1. 時代の寵児──アシストに宿る美学

レアル・マドリードの銀河系軍団を操り、アーセナルの無冠時代に終止符を打った若き司令塔、メスト・エジル。
彼の価値は、自らが決めるゴール数ではなく、味方を輝かせるための「究極のパス」にあった。

ボールを受ける前に、次のプレー、あるいはその次のプレーまでが見えているかのような広い視野。

コンマ数秒で最適解を導き出す判断力。

そして、DFが誰もいない、しかし味方が走り込めば完璧な好機となる空間へ、そっとボールを置く独創性。

それはもはやプレーではなく、アートだった。
クリスティアーノ・ロナウドは

「僕のゴールを最も簡単にしてくれたのはエジルだ」

と語り、アーセナルのファンは彼の加入を「王の帰還」のように歓迎した。誰もがその美しいプレーを愛し、誰もがその魔法の共犯者になることを望んだ時代があった。

www.youtube.com

2. 亀裂の始まり──一枚の写真が揺るがしたアイデンティティ

物語が暗転するきっかけは、2018年5月、ロシアW杯を目前に控えた時期に撮られた一枚の写真だった。
トルコにルーツを持つエジルとイルカイ・ギュンドアンが、ロンドンでトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領と面会し、ユニフォームを手に笑顔で写る。

この一枚が、ドイツ国内で激しい論争の火種となった。
メディアはこれを政治的な行為と断じ、エジルのドイツ代表への忠誠心に疑問を投げかけた。これまでドイツの多様性を象徴する存在として称賛されてきた彼の出自は、一夜にして攻撃の的へと変わる。


彼にとって、ルーツである国の指導者に敬意を払うことは自然な行為だったかもしれない。
しかし、その純粋な思いは、政治という巨大なフィルターを通して歪められ、彼のアイデンティティそのものを揺るがす刃となった。

3. 魂の告発──「勝てばドイツ人、負ければ移民」

ロシアW杯で、ドイツはまさかのグループステージ敗退を喫する。
その戦犯として、エジルは最も激しい批判に晒された。

そして2018年7月22日、彼は自身のSNSを通じて、ドイツ代表からの引退を表明する。

まだ、29歳にも関わらず。

しかし、それは単なる引退報告ではなかった。

全3部構成で投稿された長文の声明は、彼の魂からの痛切な告発だった。

特に、ドイツサッカー連盟(DFB)のラインハルト・グリンデル会長(当時)を名指しで批判した箇所は、サッカー界に衝撃を与えた。

グリンデルとその支持者たちの目には、我々が勝っている時は私はドイツ人であり、負ければ私は移民なのだ。
(中略)
トルコにルーツがあるから、イスラム教徒だからという理由で私は標的にされている。こんなことがあっていいのか?
(中略)
もはや誇りや興奮を感じられない。私はもうドイツ代表のユニフォームを着ることはないだろう。人種差別と敬意の欠如を感じながら、これ以上プレーすることはできない。

これは、一人のフットボーラーのキャリア選択を超えた、社会への問いかけだった。
これまで彼がそのプレーで隠してきた、あるいは人々が見て見ぬふりをしてきた、心の奥底からの叫びだったのである。

4. 「見えない敵」の正体──サッカー界に巣食う病

エジルを追い詰めた「敵」とは、特定の個人だったのだろうか。
いや、それはもっと根深く、目に見えない「空気」だったのかもしれない。

4-1. 政治とスポーツの不純な関係

アスリートの持つ背景やルーツは、時に国家のシンボルとして政治的に利用される。

移民統合の成功例として持ち上げられていたエジルは、ひとたび政治的な緊張が高まると、その同じ背景を理由に攻撃される。

スポーツの純粋性は、いとも簡単に政治の論理に飲み込まれてしまう危うさを、この事件は露呈させた。

4-2. メディアが作り出す物語

メディアは、大衆が求める分かりやすい「物語」を好む。エジルを「裏切り者」や「戦犯」に仕立て上げることは、複雑な問題を単純化し、読者の感情を煽るには都合が良かった。一度作られた物語は自己増殖し、事実とはかけ離れた虚像が、いつしか本人以上にリアリティを持ってしまう。メディアは、彼を追い詰める「空気」の最大の増幅装置だった。

4-3. 沈黙する組織の責任

「#NoToRacism(人種差別にノーを)」と書かれたキャプテンマークを腕に巻きながら、いざ自分たちの組織内部で問題が起きた時、DFBはエジルを守るどころか、彼に説明責任を押し付けた。多様性をスローガンとして掲げることと、それを実践することは全く違う。組織が選手個人を守る盾となれなかった時、スローガンは空虚な言葉遊びに過ぎなくなる。

5. 沈黙のその後──ピッチから消えた詩人

ドイツ代表からの引退後、エジルのキャリアは静かな下降線を描いていく。
アーセナルでは高給に見合わないとされ、ウナイ・エメリ、ミケル・アルテタといった監督たちの構想から外れ、ベンチを温める日々が続いた。

彼が愛したルーツの国、トルコのフェネルバフチェへ移籍しても、かつての魔法が完全に戻ることはなかった。
ピッチ上で見せる表情からは、かつてのようなプレーを楽しむ純粋な喜びが消え、どこか諦観にも似た静けさが漂っていた。

稀代のプレーメーカーは、誰にも理解されない孤独の中で、その創造性の源泉を枯渇させていったのかもしれない。2023年3月、34歳での現役引退。

その幕切れは、彼の才能にふさわしい喝采に包まれたものではなかった。

現代最後のファンタジスタ:メスト・エジル

美しいサッカーを愛した者たちは、エジル以降絶望の時代に入ることになる。

結び:私たちが学ぶべき教訓

メスト・エジルという物語は、単なる一選手の悲劇ではない。
サッカーが人々の心を動かす「文化」であるならば、その文化は誰を守り、何を尊重すべきなのかという、重い問いを突きつけている。

一つの才能を、政治や差別の濁流から守れなかったこと。
勇気をもって声を上げた選手を、孤立させてしまったこと。

その責任は、どこか特定の誰かが負うものではなく、サッカーを愛し、消費する我々一人ひとりにも向けられている。

ピッチの詩人を葬ったのは、世界情勢でも政治でもなく
サッカーを愛する我々だった。
彼が遺した静かな告発を重く受け止め、
サポーターついての在り方を我々は、考え直さねばならない。

誰もが愛したあの美しいパスの記憶は、永遠に消えることはない。

そして、あの美しさを葬るのではなく、守るのがサポーター。

批判は愛ではない。自己満だ。

愛するならば、称賛し続けよう。